音楽の存在

先日土曜日、
以前より音楽活動の面で大変お世話になっている池上クリニック医院長の精神科医池上秀明先生が理事長を務めておられる特定非営利活動法人Kawasaki 精神保健福祉事業団(略してK事業団)の創設20周年記念式典にて演奏をさせていただきました。

式典冒頭の池上理事長挨拶では、近年の大量殺戮事件の加害者に見られる責任能力の是非と、それを伝えるマスメディアとの関係について語っておられ、大変ナイーブな問題でありながらも先生ご自身がお考えになられたことを団体創設の理念と絡めつつ、印象深いスピーチをされていらっしゃいました。

本当に伝えなければいけないことが放送倫理や人権の問題によって淘汰され、真実が歪曲されている実際がある。
個人的または社会的思惑が交錯し、
人々が学習しなければいけない倫理感が無意味に隠蔽されてしまう。


悲劇はなぜ繰り返されるのでしょうか。
人間のこころはコントロールできないものなんでしょうか。

とはいえ、人間の精神がすべて解明され尽くしててしまったんじゃあ、芸術分野はなんとなく肩身が狭まくなるんじゃないかと思うのも正直なところ。
なぜなら曖昧な感情やあらゆる意識を表現するのが芸術だから。
芸術は、正であろうが負であろうがなんでも原材料にしてしまう。
今日に至っては個人の情緒をより細分化して表現するようになった。
無や沈黙を表現するものもいれば、爆発的感情から性的倒錯までをも具材にしてしまう。容易く触覚できないものほど、新しい芸術表現として取り上げられるものになる傾向にある。

人間の持つ様々な感情すべてが芸術の原動力になるし、その逆もある。
この曖昧模糊とした色合いを芸術は素材にしている。

AI(人工知能)が発達し、人間の存在理由が危ぶまれる昨今。
にもかかわらず、精神・人の心が、やはり未だ解明され尽くされていない実態のないものとして存在していること、
このことが芸術分野の人間社会への介入を未だ確保してくれているのではないかと勝手に思っている。。
コンピューター(マイクロプロセッサ)の脳細胞としてのトランジスタの集積度と人間の脳細胞の数は計算上、2018年にコンピューターが後者を上回る、とソフトバンクの孫氏が言っていた。
子供のころ描いていた近未来がこんなにも早く来るなんて思わなかった。

自動作曲プログラムもいずれものすごい勢いで人間の手によるものと遜色ないものになるでしょう。
生身の人間による音楽に未来はあるのでしょうか。

古来ギリシャの教育理念である自由七科(リベラルアーツ)のうち幾何学、天文学と肩を並べる科目である音楽が、数千年の時を経て未だ存在しているこのファンタジーには、人間社会に於いていかに衣食住以外の精神的な枯渇欲求が隠されているのか発見できるのではないでしょうか。
何のために芸術が存在しているのか。存在し続けられているのか。
往々にして真実は、隠蔽されたり塗り替えられたりするこの世の中。
芸術は、音楽でも美術でも古来より常にその時代のプロフィールを伝える鏡のようなもので、歴史を代弁してくれるものが芸術作品として今日存在していることが多いわけであるから、芸術=真実という見方もできる。生々しい人間の生きてきた歴史を証明するもの。
だから芸術に生きる人々は、芸術を全うすると覚悟を決めた以上、自分の芸術行為が社会にどのように貢献できるかをかんがえるべきだと思うし、それをかんがえない芸術家は単なる日曜作家として終わってしまう。
"いかに社会貢献しているか"を審議していること自体、社会に対する自己承認欲求の表れであることには違いないのは事実だからそのアプローチの度合いは肝心だけど、
センス良く迎合と反発を思考していくことで、芸術は人々の心に刺激を与え続けるのではないでしょうか。
扇動をもすれば、反感も買う。
そうそう、芸術は関心を持ってくれさえすれば非難されようがなんだろうがとりあえず伝導としては大成功だから、
どんな形であろうが伝わればいい。残ればいいと思う。


技術を磨くだけではなく、芸術が存在する意味を実際社会に照らし合わせ、価値あるものにしていく。
これが芸術を生業にしようと決意した者が、成すべき社会貢献ではないでしょうか。

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ジャズピアニスト津嘉山梢の音楽する日々