トップクリエイターの対談をきく
今日は放課後に藝大で素晴らしい対談企画があった。
作曲家・千住明さんとクリエイティブ・ディレクター箭内道彦さんの対談イベント!
箭内氏の「早合点と瞬間沸騰の時代」という表現が物凄くエキサイティングだった笑
こういう言い回し、コピーライターの糸井重里さんもそうだけど、ただ知識を詰め込んだインテリジェンスにはない、発想の柔軟さを感じる。
簡単な言葉で分かりやすくアートに関しての本音を語ってくれていた。
専門用語や哲学用語を並べ文化人気取り、べらべらゴタクをならべてるクセに全く本質を付いていないどっかの専門家とは大違いですね!(^^;
今回の対談から学んだことは、
本来わかりにくいはずの芸術というものを、
わかってもらえるアート作品として創作し、いかにして発信するのか?ということ。
芸術って、簡単に理解されないものだから芸術なんだ!と呼ばれる定義を暗黙のうちに秘めてますよね。
「あれ?なんか?よくわからないけどすごそうだぞ?」
そのセンサーが働くと、その作品はその人にとって芸術作品だし、「こんなの凡庸で、ありふれた作品だ」なんて感じる人にとっては全くなんでもないものになる。それとは別に、作品そのものの良し悪しと関係ない領域が多くの観客には重要だ、という現実がありますよね。
たとえば、天涯孤独のアーティスト、や不幸な生い立ちを乗り越えた表現者…などのドラマ性、付加価値。
要は作品の伝え方なんですよね。
作品がどうのこうのではなく、演出の技法。
これも芸術=アートの範疇だぞと。
「芸術」と「アート」
言語としてはイコールなんだけど、「アート」というほうがより身近だね、という論題も興味深く、いろいろと感じるところがあった。
日本独自の和製英語と日本語との語感のハナシなんだけど、例えばポップアートといえば、単純にいえばアメリカ現代美術のウォーホルの作品群など、日常に溶け込んだアートのことですよね。
日本文化で当てはめるなら、秋葉原のアニメ漫画文化や、リヴァイヴァル(リアレンジというか)された浮世絵なんかがサブカルチャー化していて特にヴィレバンなんかに置いてあるアートブックと並列されてるもの…なんかを連想したりもするのだけれど(笑)それを大衆芸術と言ってしまうと、これまた「お後がよろしいようで!」な雰囲気になってしまう(笑)最近日本の大衆芸術の最高峰である文楽を初体験した私からしたら、戸惑いを隠せない言葉の距離感を感じるのだが…笑?
表現形態の表し方ひとつで、受け取る側の認識度も変わるのかなと思う。つまり、自分が表現しているものの伝え方次第で受け取る側は10とも100とも取れる幅があるんだなって。
どんなジャンルに於いてもオーディエンスは、わからないものを受け止める時にどうしてもその作品を見る・聴く為の指針が欲しいから、その作品における補足情報の重要性って相当な浸透力を持つのかなと…。
だから、私はなるべく美術館やアートイベントの時でも、前情報や作家のステイトメントは見ないようにしている。そんなもの、あとから調べればいくらでも見れるしね。
瞬間瞬間の自分の受け取り方を大切にしたいなって思います。自分の感じたものと、作品のプロフィールを比較するのがまた面白いという楽しみ方なのですねー。
すべての情報を得たあとで、また更に気になったのなら再度同じ展覧会やコンサートに行けばいい。
インプットの二度付けは禁止されてまへんで!
by新世界
あーだこーだ言うとりますが、とにかく!
あふれる情報に淘汰されず、自分の思考でもっと物事に向き合わなければいけないな、っていつでも思います。
早合点せず、じわじわと自分の沸点を見極める、というところでしょうか。
自分の反発力を信じ、人に惑わされず、突き詰める!
なにはともあれ、
今日はこの学校には、藝大アカデミズムに汚染されまくった教官ばかりでないことを再確認した!(笑)
30歳目前で安定した生活、結婚・出産などいろいろ諦めて芸大に入ってきて、周りからしたらイカれポンチMAXの津嘉山ですが、
今日の対談をこの学校の学生として聞けて良かったわーって本気で思いました。
人生一回だ。博打しなくてどうする。
作曲科学生推奨のアカデミズムガッチガチの講義に行く途中、音楽学部の前でこの対談のビラを配っていたカノジョに礼を言いたい!感謝!
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